三、漢字排斥論について

表音主義者は、表音文字は表音的に用ゐるべし、といふ主張の他に、漢字を廃して欧米の言語のやうに日本語を表音文字のみで表記すべし、といふ主張もしてゐる。日本における漢字排斥論は大きく二つの潮流に分けられる。一つは、西洋文明への劣等感によるもの。もう一つは、国粋主義的な考へによるものである。それぞれの考へ方を概観すると同時に、それへの私の考へを示すことにしよう。

西洋文明への劣等感によるもの。これは、欧米列強では言葉はたつた二十六文字を覚えるだけで使ひこなせるやうになると知つたことへの驚きによつて、日本も同様にしなければ欧米列強諸国に追いつくことは出来ないと早とちりしてしまつたことが原因となつてゐるやうだ。前島密あたりが有名。ここで、考へてもらひたいのは、欧米のアルファベットは飽くまでも「字」に過ぎず、言葉を使ひこなさうとするのにはこれを組合せた「語」を覚えなくてはならないといふことだ。翻つて漢字の場合「字」即ち「語」である。通常の社会生活をおくるに必要な「語彙」の数こそ問題としなければならないわけだが、漢字を使用しても、アルファベットを用ゐても必要な概念の量に変りはない。試みに英和辞典をひいて御覧になると良い。日本語に在る「語彙」で英語に無い「語彙」はそれほど多く無い。そしてその逆もまた真であらう。つまり、覚えなければならない「語」の数に大差はないのである。

今一つは国粋主義、皇国史観的考へだが、これは賀茂眞淵や本居宣長をはじめとする国学系の学者の言説を始祖とするものだ。漢字漢語は「外国語」であつて、神国たる日本のことばは和語(やまとことば)でもつて表記すべし、といふ考へである。子安宣邦「本居宣長」よりの孫引となるが、少しくその雰囲気を味はつてもらひたい。

皇大御国は、天地の間にあらゆる万の国を御照し坐(まし)ます、天照大御神の御生(みあ)れ坐る本つ御国にして、すなはち其の御後(みすゑ)の皇統、天地と共に動きなく無窮(とこしへ)に伝はり坐て、千万御代まで天の下を統御(しろしめ)す御国なれば、懸けまくも可畏(かしこ)き天皇の尊く坐ますこと、天地の間に二つなくして、万国の大君に坐ませば、・・・・・・さてかくの如く尊く万国に上たる御国なるが故に、方位も万国の初(はじめ)に居て、人身の元首の如く、万の物も事も、皆勝(すぐ)れて美(めでた)き中に、殊に人の音声言語の正しく美きこと、亦はるかに万国に優(まさ)りて、其の音晴朗ときよくあざやかにして、譬へばいとよく晴たる天を日中に仰ぎ瞻(み)るが如く、いささかも曇りなく、又単直にして迂曲(まが)れること無くして、真に天地の間の純粋正雅の音也。

本居宣長「漢字三音孝」より

本居宣長は国学の祖のやうな人で、やはり、時代の生んだ巨人であつたと言へるだらう。また、その正仮名遣ひの普及に果した功績は極めて大きい。宣長は、日本人の思考から漢意(からごころ)を除いて、日本古来の考へに立ち戻れと主張するのである。また、日本語についても日本は天皇のしろしめす、万国に上たる国であるから、日本語は純粋正雅の音でできてゐると主張する。国学系の思想を受継ぐと思はれる仮名文字論者は、漢字は日本の言葉ではないゆゑに、これを排除しようとする。最近カナモジカイのホームページを見てゐたら、『「漢字」は「Chinese character」である』と題する一文があつた。極めて読みづらい表記法で書かれてゐる長文たが、我慢して読み進むと次のやうなことが書かれてゐる。太字の部分のみ引用しよう。

◆漢字は 中国文化が うみだした ものだが、その 表意文字と しての 性格上 中国文化と わかちがたい 関係に ある。
◆漢字の 字形は 日本語に とっては 必然性の ない ものだ。
◆漢字の 字音とは 中国語の コトバの 発音で あって、日本人に とっては 外国語の オトで あるに すぎない。そこで 音に くわえ 本来の 日本語の オトで ある 訓を あてるように なったが、そのため 世界に 例の ない きわめて 複雑な 文字の ツカイカタを する ことに なった。また 日本語を あらわしきれない 原因の ヒトツにも なった。
◆日本語と 中国語とでは オトの 体系が ことなる ウエ、音節の クミタテカタも ことなって いる。そのため、日本語での 漢字は おなじ 字音を もつ ものが 極端に おおく なり、したがって 同音異義語も おおく なった。その 結果 日本語は 視覚に 依存する、ハナシコトバと しての チカラの とぼしい 言語に なった。
◆漢字の 字義は 中国語の コトバが もつ 意味で あって 日本語の コトバの 意味とは 一致しないから、異字同訓などの 問題が 生じる。これは ヤッカイな だけで なく 日本語を ゆがめる ことに なる。
◆ 漢字では 日本語の 派生の 関係を あらわす ことが できない ことが ある。そのため 同源の コトバでも その ことが わからなく なる
◆日本語は 中国語と ことなり 活用が あるから、オクリガナの タスケが 必要で あるが、この ことも 日本語の 表記の 混乱の 一因に なって いる。
◆ 造語を するのにも 日本語の 統語法を 反映させるのでは なく、中国語の キマリに したがわなければ ならない。
イマまでの ハナシを ヒトコトで まとめると、漢字と 日本語の ミスマッチが 日本語の 表記を 複雑、不合理で 習得の 困難な ものに し、そのうえ 日本語を ゆがめ、発達を さまたげて きた

「漢字」は「Chinese character」であるからの引用

しかし、世界の言語のうちで、外国文化の影響を受けてゐないものが何処に存在するのだらうか。寡聞にして私はそれを知らない。例えば、日本人になじみの深い英国の文化、英語であるが、初めに歴史に登場した時、彼の地にはガリア人(ケルト人)が住んでゐた。ローマ人はガリアの地の政情安定のためにブリタンニアを属州化した。現在英語がラテン文字を使用してゐるのは、ローマ文明の直接的影響によるものである。ところで、ローマ文明がアルファベットを採用したのはギリシア文明の影響であるが、ギリシア文明とてこれを独自に考案した訳ではない。ロムルス・アウグストゥルスが退位して西ローマ帝国の滅びた後、ブリタンニアはアングラ族をはじめとするバイキング達の侵略を受けた。アングラ族が住みついた地を後にイングランド(アングラ族の地)と呼ぶ。彼らはゲルマン人の一部族であつた。その後、英国はノルマンディー公ギョーム即ち征服王ウイリアムの領土となつた。ノルマンディー公はノルマン人(の末裔)でこれは元来ゲルマン人の一派であつたが、英国を攻めた時点では既に完全にフランス化してゐたやうで、ノルマンディー公はフランス王の臣下であつた。さて、英語はどれだけの外来文化の影響を受けてゐるのだらうか。

また、表音主義者達は安易に「習得が困難」だとか、「日本語の表記が混乱してゐる」とか言ふが、何が困難で、何処が混乱してゐるのか。戦後、表音主義の幻想に基いた国語破壊によつて、確かに日本語は混乱してゐるだらう。だが、それを論(あげつら)ふならば、それこそ盗人猛々しいと言はなければならない。戦後の日本語破壊(所謂国語改革)に毒されてゐない文章、例へば福田恆存や石川淳の文章を読むとき、私はそこに何らの混乱をも感じない。また、日本では新聞が読めない人を探すのは難しい。それほどに我国は識字率が高いのである。その日本で使はれてゐる表記法である漢字仮名混じり文が習得困難とは一体何を根拠に言つてゐるのか。かういふのを戯言と言ふのではないか。

本邦は支那の領土となつたことも無いし、支那人に占領されたことも無い。我々は、文化文明の大先進国であつた唐土から自発的に文字を学んだのである。そして、千年以上の長きにわたり、これを自国の文字として独自の方法で用ゐてきた。訓読みは漢字に和語の意味を宛てるある種の発明である。日本語の表記は漢字移入とともに始り、日本語は漢字漢語とともに育つて来た。表音主義は既に過去の遺物となつた。

さあ、日本語のために何が出来るかを考へよう。