二、 表音式表記法は存続し得ない

これは、森鴎外も山田孝雄も言つてゐることです。山田孝雄の論文を引用しませう。ここで私の言はんとすることは全てこの一文に尽きてゐます。全文をよみたい人は、國語問題協議會のサイトをたづねてみてください。鴎外の仮名遣意見も圧巻です。こちらも本当に素晴らしいものです。

文字はいふまでもなく視覺に訴ふるものにして平面的延長を有し固定的のものなり。音は聽覺に訴ふるものにして流動的無形のものなり。この故に文字にて記されたる語が一旦成形すればそれに對する音が、變化を生ずることありとも之に對應して文字は變形することなし。而して文字はそが音字たる場合に於いても、一定の字又は一定の一綴は、決して各一箇づゝの音を箇々にあらはすに止まらずして、その字その一綴にてあらはされたる言語の平面的延長を有する可視的固定的の一定形たるものなりとす。この點は語音の可聽的流動的なるとは頗る趣を異にするものなり。
  (中略)
文字をして流れうつる聲音につれてたえず變化せしむべしとせば、文字を用ゐての定形的可視的言語は殆ど存せざるに至るべし。この故に、一旦成立せる文字上の語形は、頗る保守的のものにして、その一綴のうちに一字を改めてもわれらの可視的言語は形を破壊せられたる感を起すに至るものなり。これ外國語にても、無音の文字をその綴より容易に除くこと能はざる理由なり。 

山田孝雄「文部省の假名遣改定案を論ず」より引用

書かれた文字は当然ながら変化せず、話す先から消えてゆく音声言語は日々変化する。そのため、文字言語と音声言語とは必ず乖離する宿命を負つてゐるのである。一度文字言語として成立した「語」はその発音が変化したとしても、容易にこれを変化させることを得ない。それは、言語体系が破壊されたかの如き感を生じさせるからである。

勿論、音声言語にはじめて表音文字を当て嵌める時、音と文字とが一対一で対応するように表記を工夫するだらう。時の経過とともにそこに或る種の乖離が生じてはじめて、表音文字の綴り方が問題となるのである。日本語では、これを仮名遣ひといふ。つまり、現代国語の発音に忠実である(ことになつてゐる)現代仮名遣ひにしても、将来必ず綴り方の問題が出てくるに違ひない。あるいは、発音通りに綴ることを実践し続けていけば、日本人はいつの時代も過去の文化的遺産を読むことの出来ない不思議な民族となるだらう。いや、私はそれが既に始つてゐると思ふ。言葉を軽視する風潮は、現代仮名遣ひによつて助長されてゐるのではないだらうか。最近、「十手」のことを「ジュッテ」と発音する人が多くなつた。しかし「十」の字の音読み(厳密には字音仮名遣ひ)が「じふ」であることを知つてゐれば、それが時に変化して「じつ」となることは至極自然である。勿論「十手」は「じつて」と読むのが本来正しいのだが、「十」の読み(現代仮名遣ひ)が「ジュウ」となったことが、「十手」の読み方の変化、「じつて」といふ伝統的な読み方から「ジュッテ」といふ今様の発音への変化を助長したと私は考へずにゐられない。

合(がふ)格→合(がつ)宿
執(しふ)着→執(しつ)権
拾(しふ)得→拾(じつ)得
入(にふ)学→入(につ)唐
法(はふ)律→法(はつ)度
建立(りふ)→立(りつ)身

のごとく、字音には「ふ」が「つ」に変る場合があるが、「じふ」が「じつ」に変るのもその一つなのである。