一、 文字と文章とは、まづ第一に意味を表すためのものである

そもそも我々は何のために文字を用ゐて文章を書くのでせうか。それは、正確な「音韻」とか「音素」とかのためではなく、自分の言はんとすることを他者に正確に伝へるためです。即ち「語」と「意義」とを表現するためであつて、「音」のためではありません。飽くまでも「意味」と「概念」とが主であつて「音声」は従でしかありません。我々は普通「経営」と言ふとき、実際に口から出てゐる音は多分「ケーエー」といふやうなものでありませう。しかし、話してゐる人は「ケイエイ」つまり「経営」について論じてゐるのであつて、日本語の判る人ならば普通誰も「ケーエー」といふ実際の音声に拘ることはありません。誰もがその音を「経営(ケイエイ)」と聞き取ります。そこでは「経営」といふ語の代表する概念こそが大切であつて、我々の口が怠惰であるために現代の日本語でどう発音をするか、といふことにはあまり意味が無いのです。

そして、文章において表意性を重視するのならば、文中において同じ言葉はいつも同じ形で出てくるやうにしたはうが良いに決つてゐます。また、語源を同じうする言葉は、同じ仲間の言であることが類推できるやうになつてゐたはうが良いのです。正仮名づかひ(所謂歴史的仮名遣ひ)はこの原則に則つて出来てゐます。「あふぎ」で「あふぐ」といふ言語感を私は支持します。四段活用は「言はない/言はう・言ひます・言ふ・言ふとき・言へば・言へ」でなければなりません。「言おう」としてしまつては、五十音の原理から逸脱してしまひます。私は五十音図は日本語の根本的原理だと思つてゐます。「ありがたう」を今では「ありがとう」と書かされますが、ここでは語幹が変化してしまつてゐます。表記上変化しない部分を語幹と言ふのですが、表音主義の横車をとほしたために、語幹が変化してしまふ珍妙な事態が発生してゐます。

ひと(人)、おちうど(落人)、かりうど(狩人)、わかうど(若人)といふ言葉があります。これらはすべて人を表す部分を共有する言葉であると同時に、そこには「落ちる」、「狩をする」、「若い」といふ語意識が生きてゐます。これを現代仮名遣ひで「おちゅうど」、「かりゅうど」、「わこうど」と書く時、「落ちる」、「狩をする」、「若い」といふ語源語義がそこからは極めて読み取りづらいことになつてしまひます。そもそも「かりゅうど」といふ言葉をどのやうに解釈したら良いのでせうか。「かりゅうど」といふ表記では「カリュード」とふ音のみを代表してゐて、「狩る」と「人」とに分解出来ないではないですか。「かり(狩)」といふ言葉と「ひと(人)=(うど)」といふ言葉とが組合さつて「かりうど」といふ言葉ができる。この場合、正仮名づかひでは、容易に語源に辿り着くことが出来ます。