假名遣について  六、字音假名遣について

字音假名遣とは、漢字の音讀みを假名書するときの決りのことで、假名遣の一種である。私が縷々ここまで論じてきた假名遣は、國語假名遣(和語を假名で書く場合の決まり)についてであつて、字音假名遣はそれとは一應分けて考へることができる。

 字音假名遣は、過去のそれぞれの時代に、支那における漢字の發音を假名を使つて、可能な限り映さうとしたもので、
    はふ(法)

    はう(方)
    かふ(甲、合)

    かう(交、考、高)

    くわう(皇、光、黄、廣)

    こう(構、後、口、興)
 等を書分けるものである。これを暗記することは中々厄介である。正直言ふと私も殆ど覺えてゐない。また、その必要もない。漢語は通常漢字で書くことが原則であるから、字音假名遣は漢字の陰に隠れてしまふために、敢へて表記する必要も記憶する意味もない。書くのは困難であるが、振假名に使はれる場合などのやうに、その字音假名遣から、讀み方を想像することは逆に極めて容易なことだ。

 一方、字音假名遣は上に述べたその性質から表音的に改めたとしても國語の文法體系を破壞することはない。このことから、丸谷才一氏のやうに字音假名遣いを表音的に改めても良い、といふ考へが生じる。しかし、この理窟の全くの裏返しで、これを改める必要がないとも考へることができる。

 字音假名遣も、やはり歴史を生抜いてきた日本の傳統である。その証據に、右に掲げた、字音假名遣から、次に挙げる語の發音を合理的に説明することが出來る。

    法度、甲冑、合戰
 法、甲、合は本來「はふ、かふ、かふ」と讀むべきだが、これが促音となつて「はつ、かつ、かつ」となるために、結果として、「法度」、「甲冑」、「合戰」はそれぞれ「はつと」「かつちう」「かつせん」と讀むわけだが、これをそれぞれ「ほう、こう、こう」(それとも「ほお、こお、こお」か)と改めてしまつては、その間の關係が不明瞭になつてしまふ。非合理でも不便でも、これが傳統といふことである。改める必要のないものを早急に改めることは、必ず何らかの歪みをもたらす。舊來の仕組に基いて言葉の秩序が作られてきたのだから、それは當然のことだ。ちなみに言ふが、「十」と「十手」との關係もこれに相當する。「十」は「じふ」であり「十手」は「じつて」である。近時、これを「ジュッテ」と発聲して憚らない風潮が世に蔓延してゐるが、奇妙なことである。同心のうち誰が「ジュッテ」なんぞといふ薄氣味惡いものを用ゐて江戸の治安を取締つてゐたか。馬鹿も休み休みに言つてもらひたいものだ。閑話休題。
 縦令(たとひ)それが不便であつたとしても、今までさうして來たといふ理由だけで、十分それが正しいといふ理由になる。仕來りは、ともかくもそれを尊重する。言語文化においては、それを疑つてしまつては、言葉そのものが存立の基盤を失ふ。

 「食べられる」といふべきを誤つて「食べれる」といふが如き若年層の言葉遣を、上一段や下一段の活用が複雜であるから、仕方のないことで、この誤用を正しいと積極的に認めても良い、といふやうな論を昨今の國語學者の中にも見ることがある。しかし、何故に正しい言葉遣を習得した年長者が、若者の誤れる言葉遣に迎合しなければならないのか。誤りは誤りである。誤用も用ゐる人間が多くなれば、一應正しいものと認められるやうになるものであるが、それでも辞書には「本來は誤用であるが、近年、多数者が用ゐるやうになつたもの」といふ注釈つきで掲せられるべきである。さういふ事態になつたとしても、心ある人間はかういふ言葉遣には細心の注意を払つた上で、なほかつ必要缺くべからざる範圍に限つてでなければ用ゐるべきではない。言語の規範といふのはさういふことである。言葉の亂れを學究的立場で觀察し、それを積極的に認めることは、その亂れを助長することにしかなり得まい。誤用は誤用であるとして警鐘を鳴らし續け、それでもなほ防げない變化だけを認めていく。さういふ態度でなければ言葉についての規範は雲散霧消してしまふ。いや雲散霧消するのは規範だけではあり得ない。言葉そのものが雲散霧消してしまふのである。

 そろそろ目を覺ましてもらひたい。進歩とはただ單に傳統を破壞し、仕來りを改めることであるか。そこに如何なる價値があるのか。全ての日本的なものを欧米的なものと比較して、異なるものを舊弊とし、何が何でも西洋人のやうにならなければならない。さういふ無駄な努力はもう終りにしようではないか。我々は現在の自分自身と付合ふしかない。我々は、その據つて來る過去の傳統を再評價すべき時期に來てゐると思ふ。

 議論が少々横滑りしたが、字音假名遣も日本語の大切な傳統の一つである。一々記憶する必要はないが、だからと言つて積極的に否定する必要もない。從來正しいとされて來た。それだけの理由で正しいと認めるべきだ。

   七、現代假名遣は効率的ではない

 ここまで、拙論にお付合ひ戴いた諸賢には既に自明のことだと思ふ。傳統に基かない言語表記。歴史を無視した言語論。全て本質的に無意味である。

 なるほど、あらゆることに改革は必要であらう。しかし、それとても過去を認めた上で、少しづつ行ふべきである。過去を全否定するところからは、如何なる建設的な方策も立案し得ない。歴史を知り文化を習得することは己を知ることである。己をも知らずしてどうして、行くべき道を探し得ようか。

 現代假名遣は、正しく使ひこなすことさへ困難なほど支離滅裂な代物である。新かなが効率に寄与するなぞといふ考へは單なる迷妄である。