假名遣について  四、表音表記「現代假名遣」は何故いけないか

 現代假名遣の最大の難點は、原則を缺くことである。
 言語の表記法として、原則を缺くといふことは致命的なことだ。原則を缺くがゆゑに、使用者が正しい表記法を類推することが不可能となり、結果として、人工的に作られた不合理な表記を丸暗記せざるを得なくしてゐるのだ。そして、人間にはさういふ不合理なことは不可能であるから、世に誤つた表記が蔓延し、國語を蔑視し、日本語では合理的な思考が出來ないなどと「非合理」なことを放言する輩が出現するのである。

 讀者の皆さんも、新假名で「とおり(通り)」と書くべきを「とうり」と誤つてゐる例を度々御覧になつたことと思ふ。少々注意すれば、そして正假名の用法を知つてゐれば、をかしえない誤りである。正假名遣(所謂歴史的假名遣)を知らなければ、正しく綴れないのが現代假名遣なのである。

 そして、現代假名遣は文法を破壞した。

 有難うといふ語は、新かなでは「ありがとう」と書くことにされてゐる。しかし「ありがたい」といふ語について考えてみるとき、

   ありがたからず(未然)

   ありがたくて(連用)

   ありがたし(終止)

   ありがたきもの(連體)

   ありがたければ(已然)

   ありがたかれ(命令)

のやうに活用(カリ活用)し、その語幹が「ありがた」であることは明白である。語幹といふのは、活用しても變化しない部分のことであるが、「ありがとう」といふ表記においては、この原則が崩れてしまつてゐる。正假名の「ありがたう」のはうが合理的である。

 願ふといふ言葉がある。正假名ではハ行四段活用で、文語と同じであるが、

   ねがはば(未然)、ねがはう(口語)

   ねがひて(連用)

   ねがふ(終止)

   ねがふこと(連體)

   ねがへど(已然)

   ねがへ(命令)

となり單純で整然とした活用である。ところが、新假名では、これは

   ねがわば、ねがおう

   ねがいて

   ねがう

   ねがうこと

   ねがえ

となるので、五十音のア行にもワ行にも當てはまらない、五段活用となつてしまふ。現代國語では、アワ行五段活用と稱してゐるやうであるが、笑止である。日本語の文法は五十音圖に從ふことが大原則である。(念のために記載しておくが五十音圖のワ行は「わゐうゑを」だ。)語幹を變化させ、五十音圖から逸脱する語尾變化を強制する新假名遣は、日本文法を破壞したものと言はざるを得ない。