假名遣について  二、假名遣の歴史

 日本には原初固有の文字はなかつた。支那から漢字を導入し、我國ではこれが唯一の表記の手段であつた。假名は、眞名(漢字)に對する言葉で、略式の文字くらゐの意味である。最初の假名は漢字をその意味を無視して表音的に用ゐた萬葉假名で、萬葉集(七~八世紀)に使用されたことで有名である。古今和歌集は延喜五年(西暦九百五年)頃の編纂とされてゐるが、紀貫之の「假名序」は公式の文章で始めて「假名」が使用されたものとされてゐる。

 假名の成立當初、假名は當時の發音に忠実に、表音的に使用されてゐたものと考へられてゐる。「ゐ」「ゑ」「を」はそれぞれ「い」「え」「お」とは發音の上で区別されてゐたのであり、また、今日「え」と發音する「へ」の字は「え」とは異なつた發音をされてゐたのである。しかし、時代と共に發音が變り、假名遣ひは一時亂れる。文字は書かれた状態で固定され、話し言葉は時とともに變化する。この當然の歸結として、文字言語と音聲言語の間に乖離が生じた。「ゐ」「ゑ」「を」は「い」「え」「お」に發音の上で同化してしまつたため、書分けることが出來なくなつてしまつたのである。

 假名文字について、最初に正書法の確立を主張したのは藤原定家である。定家は「を・お」「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の書分けについて「下官集」の「嫌文字事」の条に論じ、後に行阿がこれに増補して、主に和歌を作る場合に用ゐられた。

 これが所謂定家假名遣である。定家假名遣の特徴としては、「お」「を」の書分けを當時のアクセントの高低によるものとしたこととされてゐる。それは、十分に古い文献に當つたものではなく、資料の渉獵の點で不完全であつた。ために、現代の基準からすると、誤りとすべきところがあるが、定家は假名遣についての先覺者であり、假名文字遣ひにも正書法が必要であるとする考への始祖となつた點で無視できぬ功績と言へよう。

 江戸時代になつて、契沖は、萬葉集等の更に古い資料を研究することにより、奈良時代から平安中期ころまでの文献の假名表記には、整然とした統一性のあることを發見し、この古來の原則によつて表記すべきことを主張した。現代のいはゆる歴史的假名遣の始りである。この契沖の假名遣は本居宣長らによつて更に継承研究され、明治以降も研究が續けられて、敗戰に至るまで廣く正當な表記法として用ゐられてきた。

 昭和二十一年に内閣告示が公布されて現代假名遣が強制された後も、それが社會生活に受入れられるまでには十年單位の時間がかかつた。新假名で教育を受けた人間が成人となるまでに十年、更に彼らが社會で中核的な存在となるまでに二十年程度必要であるものとすれば、昭和五十年前後になつてやうやくこの、似非假名遣が社會に定着したものと考へることができる。実際、私の幼少時代、昭和五十年頃に圖書館で手に取る書物には、學校で教へられる國語とは別系統の表記法で記された文章がたくさん在つた。面白さうな表題の作品なのに讀めないで悔しい思ひをしたものである。

 新聞、雜誌の類はそれ以前の比較的早い時期から略字新假名の「現代表記」を採用したが、文藝書はさう簡單に新表記には移らなかつた。當時十歳になつてゐない私はそれを自信をもつて斷言することはできないが、私は新表記が文藝の世界でも支配的になつたのは、昭和五十年以降ではないかと思つてゐる。