假名遣について  一、序文

 まづ最初に、「歴史的假名遣」といふ呼稱に疑問を呈することから始めようと思ふ。森鷗外その他の先人に倣つて、私はこれを單に假名遣と呼びたいからである。假名遣は、過去、現在、未來に亙る國語の表記に耐へる生命力と融通性を持つたもので無ければならぬ。「現代假名遣」にはそれがない。「現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらはす場合の準則」である以上、それは現代にしか通用しないものであり、過去を否定するその硬直した新表記は、言葉が變化するといふ當然のことを想定してゐない。現代假名遣は過去の國語文化を拒否し、將來の言葉の變化に對する準備を缺いてゐる。唯一の正書法であるべきは、所謂歴史的假名遣のみであり、表音的假名遣は本質的には假名遣ではなく、單なる表音記号の一種でしかない。

 その表音記号を假名遣と呼び、のみならずそれに現代といふ言葉を組合せて「現代假名遣」と稱し、本來の假名遣に歴史的といふ言葉を冠して「歴史的假名遣」と呼ぶ欺瞞。そこに私は或る種の作爲を、惡意をすら感じる。「現代」は一般に好印象を与へ、「歴史的」は過去の遺物を聯想させる語だからである。

 しかし、現代社會に於いては、假名遣に二つの標準があるやうに一般に誤つて解されてゐるため、單に假名遣と言つたのでは、「現代假名遣」を指すのか、本來の假名遣を指すのかが判らなくなつてしまふ。言葉の表記に於いて標準が二つあると言ふことこそが重大な問題なのであるが、鷗外の時代からすでにさういふ傾向があつたものと思はれる。この混亂を避けるために、私は本來單に假名遣と稱すべきものを正假名遣と呼ぶことにしてゐる。國語の傳統を守るべきだと考へる立場の人間は、皆さういふ呼び方をしてゐる。現代假名遣は新かなと呼ぶ。

 ここで、先達の作品からこの問題に關する幾つかの文章を引用することとしたい。
 此物を指して自分は單に假名遣と云ひたい。さうして 單に假名遣と云ふのは諸君の方で言はれる歴史的の假名遣即ち古學者の假名遣を指すのであります。而も其の假名遣と云ふ者を私は外國のOrthographieと全く同一な性質のものと認定して居ります。(森鷗外「假名遣意見」)
 表音假名遣に於ては假名は正しく言語の音に一致すべきものとし、同音に對して一つ以上の假名の存在を許さないのである。もし同音の假名の存在を許さないとすれば、假名遣はその存立の基礎を失ひ雲散霧消する外ない。即ち、表音的假名遣は畢竟假名遣の解消を意圖するものといふべきである。然るに之を假名遣と稱するのは、徒に人を迷はせ、假名遣に對する正當なる理解を妨げるものである。(橋本新吉「表音的假名遣は假名遣にあらず」)
 文字は表音的にすべきものなりと稱して、從來の假名遣をば歴史的假名遣などいふ新名稱を以てこれを呼び、暗にこれが過去の廢物なるかの如く世人に思はしめたる疑なきにあらず。されど、文字にしても言語にしてもそれが文化の存する民族に傳はれる限り歴史的ならぬものありや。(山田孝雄「文部省の假名遣改定案を論ず 」)

 私の國語觀は、これらの作品に代表される考へと共通の立場に立脚してゐる。言語文化はなにより傳統を尊重すべきであり、それには、過去、現在、未來に通用すべき一貫性が要求される。この考へに立つ限り、現代日本にだけ通用すれば良い、過去に書かれた文章が讀めなくなつても良い、といふ漢字制限、略字採用、假名遣改變の國語改革の方向性は誤りであると言はざるを得ない。

 私が、かかる微力を盡す所以である。