私の表記法について

 今昔文字鏡フォントの導入により、私のパソコン上では、正漢字を畫面に正しく表示し印刷することが可能となつた。正字正假名遣の文章で漢字の字體に關する論考を行ひ、PDFファイルに變換して公開することも、私自身既に行つてゐる。同様の手法による橋本新吉電子文庫のやうな素晴しい仕事もある。既に、パーソナル・コンピュータの処理能力の壁は崩れた。意欲さへあれば、恣意的に破壞される前の、國語の傳統的表記を個人のコンピュータで再現し、正統表記の状態のままで文章をインターネットを通じて公開することが可能となつたのである。かつて國語改革論者は、日本語がタイプライターで處理できないことを國字改革の理由に擧げたことがあるが、その國語破壞の理由のひとつは完全に失はれたことをここに宣言して、私の表記法に關する解説を始めたい。

 戰後の誤れる國語教育により、言語文化の本來の傳統を重んじる人間は一握りの少数派となつてしまつた。假、變、對、體、畫、傳などの正漢字を抵抗無く讀める人、鷗外、漱石の作品は出版當時の表記のままで讀みたいと思ふ人、声(聲)、医(醫)、尽(盡)などの字體が無様であると感じる人、欠、芸をそれぞれ缺、藝の代りに用ゐることに疑問を感じる人、さういふ傳統的な言語感覚を持つ人は絶對的に少數派となつてしまつた。コンピュータに字體が正しく表示されたとしても、それを抵抗無く讀んでもらふことが期待できないのならば、正字表記の文章を作り、それをインターネットに公開することにどういふ意味があるのか。それは、畢竟書齋の樂しみに過ぎぬのではないか。自己満足に過ぎぬのではないか。さういふ疑問、さういふ懼れが私を戸惑はせる。だから、私は略字(當用漢字體)を用ゐて文章を綴つて來た。略字を用ゐることは腹に据ゑかねる行為だが、讀んでもらへねば仕方がないと思ひ、專ら略字を用ゐるて來たのだが、しかし、時間を置いて己が文章を讀返してみたとき、私はその論理と表記法との矛盾に慄然としてしまつたのだ。國語改革の非を鳴らす文章を綴りながら、少なくとも漢字についてはその誤れる改革表記で文章を綴る。さういふ自分の態度の曖昧さに疑問を感じてしまつたのである。これは、現代日本においては本當に難しい問題である。しかし、これからは表現内容により正字表記と略字表記とを臨機應變に使ひ分けることとしたい。具體的には、日本語論に關するページでは、正字を用ゐ、その他の趣味的ページでは略字を使ふ。 しかし、當用漢字表に含まれない漢字を含む熟語の「同音の字による書換」は斷固排除すべきであると考へてゐるので、本來の表記を用ゐることがある。ある意味、當用漢字表の文字簡略化はその變更前後の字體のみを覺えなおせばすむ問題である。しかし、「綜合→総合」、「刺戟→刺激」などの同音の字による書換は無數にあつて、これよりも遙かに罪が深い。まづ、漢字漢語の體系を破壞してゐる。そして、舊來の表記による文章を讀まうとし、なかんづく書かうとするときには、これが決定的に邪魔をする。だから、これらについては自分の知識と教養との及ぶ範圍で、可能な限り傳統的な表記を心がけることとしたい。

 假名遣については、和語、字音ともに全て正仮名遣(所謂歴史的假名遣)による。假名遣は絶對に譲ることの出來ぬ國語の眞髄だからである。表音式假名遣(いはゆる現代假名遣)は國語の文法を破壞するから、漢字の字體改變よりも重大である。正假名遣が讀めない日本人は存在しない。私が正假名遣を用ゐる所以である。

 私の無知無學がこれを妨げるだらうが、諸賢には誤りを正していただければ幸ひである。

 平成十七年七月二十四日 既に公開濟みの文章であるが、一部を改めた。更に、平成二十年九月四日誤字の修正を行つた。(略字のままであつた文字を正字に修正。)