戰後の國語破壞に對する私の立場

 言葉は精神の乗物である。人は言葉を用ゐずに論理的思考をすることは出来ない。精神を高く保ち、論理的思考を明晰にするためには、言葉は美しく、そして合理的でなければならない。言葉は単なる意思伝達のための道具ではないのである。そして、現代日本の国語は、敗戦後の文化破壊によつて、その本来持つてゐた合理性、整合性、普遍性を失ひ、傷付き、病んでゐる。それは達意の道具としても不適格だ。何故なら、現代表記は時代を超えた過去及び恐らくは未来との達意といふことを著しく阻害するからである。

 敗戦後の文化破壊である当用漢字、常用漢字による漢字制限、現代仮名遣ひの強要(拙文「表音主義への論駁」へ)、送り仮名改定、同音の漢字による書替、JISコード表への誤った漢字の登録を、私は弾劾する。

現代国語は傷つき、病んでゐる。 しかし、これ以上、私はここで国語改革の非をいたづらに鳴らすことはしない。 それは、福田恆存を始めとした先達によつて既に十分論ぜられ、立証されてゐるからである。論争において、既に勝負はついてゐる。では、現代日本に置かれた私はこの問題に対して何をすべきであらうか。いや、「我々日本人は何をすべきであらうか。」 戦後破壊された国語には治療が必要である。そのための処方を考へること。それを主張すること。そして、一人一人が少しづつそれを実行していくこと。もう非難はしない。日本国民は壊された我々の文化を修復することを考へなければならない。

くりかへし言ふが、言葉を単なる意思伝達の道具と見做してはいけない。それは、私たちの思想であり、そして精神そのものなのだから。